Secret kiss"




 ガチャ。小さく開いたドアの隙間から、大きな瞳が覗く。
「……よし、だれもいないわよね?」
 呟いて、さらにドアから顔を出して、きょろきょろと見回す。
 よし、だれもいないわ!
「アル……いい子にしててね」
 さっと廊下に飛び出して、部屋の中、ベッドの上に丸まる黒い子猫にこっそりと声をかける。アルはふん、とそっぽを向いてしまったけれど、ヘンリエッタは気にせずドアをぱたんと閉めた。
 ある晴れた日。少女はまた日の高い時間にも関わらず、こそこそと歩く。角を曲がるときは、壁にぴったりと貼りついて、そうっと首だけを出して様子をうかがってから。口から心臓が飛び出るんじゃないか、という思いを何度も繰り返して、ヘンリエッタは居間へと続くドアへたどり着いた。
 ほうっと、つめた息を吐こうとして、ぐっと飲みこむ。
 いけない、いけない。どんなお話でも、こういうときが一番危ないのだ。ゴールだ、と思って飛びこむと、実は罠で絶体絶命、大ピンチ!になってしまう。そう、いつだって油断は大敵。自分に言い聞かせてドアに耳をぴっと付けて、耳を澄ました。
「……お前、なにまた馬鹿なことをやってるんだ?」
「っきゃあ!!……っル、ル、ル、ルーイ!?」
 思いっきり呆れたような声がして、びくりと身体がはねる。振り向けば、大声に顔をしかめたルートヴィッヒが、スケッチブックを片手に立っていた。
「また、何かやらかしたのか?まったく毎日毎日、お前ときたら……」
「ちょっと待って。どうして私が悪いことしたって決めつけるの?ルーイのばかっ」
「馬鹿って、お」
 お前、と続くのか、おい、と続くのか、最後まで聞かずに居間へ飛びこみ、バタンッとドアを閉めてやった。
 まったく、ルーイったら失礼しちゃうわっ。そう、ぷくっと頬をふくらませたとき、
「ヘンリエッタ、一体どうしたの?またルーイとケンカでもしたのかい?」
 はたきを片手にヴィルヘルム兄さんが、優しく首を傾げていた。
「な、な、な、なんでもないわ!うん、大丈夫、平気だから、ぜんっぜんっ気にしないでっ。いつものことだから!!」
 大慌てで両手を胸の前であわあわと振る。そう?と微笑む兄さんに、大きく頷いて、さりげなく両手を後ろに隠した。
 どうにかごまかせたところで、改めて兄さんを見ると、おそうじ中のようだ。頭にはほこり除けの布を巻いて、手にははたきを持っている。綺麗な顔だけれど穏やかな雰囲気の兄さんには、不思議とよく似合っていた。
「ヴィルヘルム兄さん、もう少しおそうじかかりそうなの?」
「うん、ごめんね。でも、ちゃんとおやつの時間には終わらせるから。あ、終わってなくても、おやつは出してあげるからね。
 だから本を読むんなら、外か自分の部屋で読むんだよ」
「はーい…」
 いつものように居間に本を読みに来たと思われたらしく、やんわりと釘を刺された。
 おそうじを手伝ってとは言わない兄さんに、やはりお手伝いするとは言わずにヘンリエッタは返事をした。
 グリム家の次男と末っ子の二人だけで、おそうじをしてはいけない。それがこの家のルールだ。グリム家の長男と三男が、割れたガラスを片付けながら、ほうきとちり取りを手に決めた重要な決まり事だ。
 そういうわけでヘンリエッタは、ちらりと棚の上の薬箱を見て、大人しく居間から出ていった。
「あ〜あ、どうしよう……」
 青空の下に座りこんで、立てたひざの上に軽く握った両手を置いて、ため息をついた。ちらりと右手の甲を見ると、うっすらと血のにじむ傷がある。ほんの少しだが、ヒリヒリする。この傷の手当のために、居間の薬箱に用があったのに、ヴィルヘルム兄さんに見つかってしまうなんて……。幸い、ケガはバレていないけど。
 このケガは、ふかーいわけがあって誰にも内緒にしないといけない。たとえ家族でも、だ。
 もしもバレたり、手当が出来ずに傷が残るようなことになったら……
 ルーイは怒るだろうし、ヴィルヘルム兄さんは心配するだろうし、ヤーコプ兄さんは―
「そうよ!森に行けば、お薬になる葉っぱがあるわ!!」
 思い浮かべたことをなかったことにするように、首を振って勢いよく立ち上がる。
 そのまま森へ駆けて行く小さな背中を、つまらなそうに細められた瞳が見送っていた。


 部屋の隅でいつの間にか編み上げられていた蜘蛛の糸のレースを取り払って、普段は見えないところに積もっていた埃を落とす。最後に壁から床まで拭いてお終いだ。
「よし」
 裾をまくった腕で額を拭って、ヴィルヘルムは満足げに部屋を見回した。父や祖父、曾祖父よりも昔から受け継いだ来た家具も、温もりのある光沢を取り戻している。その中の一つである柱時計を見ると、妹と約束したおやつの時間まであまり猶予はない。掃除をしているときに目に入った、壁や柱や床や棚についた傷。それらの思い出を苦笑いとともに浮かべては、なぞるように辿っていたら、思ったよりも時間がかかってしまった。急いで後片付けをして、おいしいおやつを作ろう。
 あの娘は何が食べたいだろうか、と窓から外を見る。が、お気に入りの木陰にも、ふかふかのベッドみたいと言っていた芝生にも小さな赤い姿はない。こんなにいい天気なのに、と空を見れば、ふわふわの雲が気持ちよさそうに浮かんでいる。妹のおいしそう、という声が聞こえたような気がして、ヴィルヘルムは決めた。
 今日のおやつは、あの雲のようにふわふわのパンケーキにしよう。


「あ、またあったわ!」
 うきうきと手を伸ばして、ヘンリエッタはそれを摘み取った。小さな手に広げて乗せたハンカチには、ささやかな山ができている。それは、傷によく効く葉っぱ、ではなく、赤いつぶつぶの野イチゴだ。
 たくさん摘んでヴィルヘルム兄さんにパイにしてもらおう。余ったらジャムにしてもらってもいい。それになにより、
「んー、甘ずっぱくておいしい!」
 口の中に広がる味は、なによりのごちそうだ。味見として一個だけ食べて、後は落としてしまわないようにハンカチを包む。
「これだったら…きっとアルも食べてくれるわよね」
 そっと心に小さな、自分よりも小さな家族を思う。嫌いなものが多いのか、中々ご飯を食べてくれない、可愛い子猫。初めて会ったときもふらふらしていたけれど、この頃は……。
 思わず、空いた手をぎゅっと握りしめる。ピリッとした痛みが走った。
 いけない、お薬の葉っぱを探しに来たんだった!つい野イチゴに夢中になってしまったけど、急いで探して帰らなくちゃ。そう思ったとき、はっと気づいた。
「……私、どこから来たの?」
 誰も答えてくれない代わりに、風が吹いて木々を揺らした。


 ぽんっとフライパンの上で宙返りさせて、落ちてきたパンケーキを皿で受け止める。
 太陽のようにまん丸で、雲のようにふわふわの、今日の空のようなパンケーキが四枚。時計を見れば、おやつの時間を少し過ぎた頃だ。後はお茶の用意をすれば、準備は万端だ。
「美味そうな匂いだな」
「兄さん。もうちょっとしたら呼びに行こうと思ってたところだよ」
「ああ、そろそろだと思った。ルートヴィッヒも匂いにつられて来たようだな」
「そんな、あいつじゃないんですから……僕はたった今帰ってきたところで、手を洗いに来ただけです」
「おや、ルートヴィッヒ。お前はそう言うが、ヘンリエッタはまだ来ていないみたいだぞ?」
「え、珍しいですね。雨でも降るんじゃないですか」
「あはは、もしかしたら眠っちゃってるのかも。部屋にいるだろうから、僕が呼んでくるよ」
 だからお茶の準備をお願いね、と言ってあっという間に出て行った。うきうきといつもより格段に素早い動きでいなくなった次男を、長男と三男は苦笑しながら見送った。
「ヘンリエッタ」
 コンコン、とドアをノックする。が、いつものように可愛い声がはーいと返事をすることも、ドアが開いて愛らしい笑顔が迎えてくれることもない。本当に眠っているのかもしれないと思いながら、もう一度ノックした。
「ヘンリエッタ、入るよ」
 しばらく待って、ドアノブを回す。けれど部屋には妹の姿はなかった。
「アル、ヘンリエッタがどこに行ったか、知らないかな?」
 代わりにベッドの上で丸まっていた小さな黒猫に声をかける。外のお気に入りの場所にも姿はなかったし、何より最近はずっとアルの傍にいた。だから、今日もきっと一緒に部屋にいるだろうと思っていたのに。やっぱり外かな、とヴィルヘルムが踵を返しかけたときに、アルが急に起き上がって足下をすり抜けて行く。そのまま廊下を駆けて行くが、角を曲がる手前で止まってニャアと鳴いた。ついて来いと言う様子に反射的に走り出す。
「アル、お前どうしたんだ、急に?って、うわっ、ヴィルヘルム兄さん?ヘンリエッタは」
「ルーイ、あの娘のことは僕に任せて。おやつはヤーコプ兄さんと先に食べておいて」
「え、ちょ」
 角でぶつかりそうになった弟にそれだけ告げて、一目散にアルを追う。残されたルートヴィッヒは呆然とした後で、もう一人の兄ヤーコプの待つ食堂へ戻った。
「どうした、ルートヴィッヒ?ヘンリエッタとヴィルヘルムは?」
「……よく分かりません。ヴィルヘルム兄さんが、ヘンリエッタのことは任せて、先におやつを食べててほしいって言って、アルを追いかけて行きました」
「…そうか、では大人しく待っているとしようか」
「え、でも……あいつに何かあったんじゃあ。ヴィルヘルム兄さんがあんなに慌てるってことは、そうとしか思えません。そうじゃなくても、食い意地の張ってるあいつがおやつの時間になっても帰ってこないなんて、また迷子になってるのかも」
 言いながら段々と視線を落とし、ルートヴィッヒは胸元をぎゅっと握りしめる。自分の言葉にどんどん不安になっていっているのだろう。それを隠せない小さな末の弟の頭を優しく叩いて、ヤーコプはしゃがみ込む。
「なあ、ルートヴィッヒ。ヴィルヘルムが任せろ、と言ったんだ。それにアルも一緒だったんだろう?彼らはあの娘のことが大好きだ。すぐに見つけて一緒に帰ってくるさ。きっと大丈夫だ」
 下から覗きこむようにして合わせた顔は、まだまだ幼い子供らしい弱さが濃く表れている。妹がいないから見せているのか、妹がいないからそれほどに不安なのだろうか。それは彼が、妹の前では決して見せない顔だ。でも、と小さな声が零れ落ちる。待つしか出来ないのだろうか、という不安が青い瞳の中で揺れているのが分かる。
「それに、俺たちは家で待つことを任されたんだよ」
「え?」
 意外な言葉に、ルートヴィッヒは顔を跳ねあげた。ようやく目を合わせた弟に、ヤーコプは笑いかける。
「もしも全員で探しに出て、家を開けてみろ。そしてもし、あの娘が一人で帰ってきて、家に誰もいなかったらどうなる?甘えん坊なあの娘のことだ。泣き出してしまうかもしれない」
「……甘いですよ、兄さん。あいつのことだから、何も考えずに僕たちを探しに家を飛び出して、今度こそきっと迷子になりますよ」
 お前は厳しいな、と苦笑いしながら言うと、兄さんたちが甘すぎるんです、といつものように呆れた声が返ってきた。
 お前もだよ、と言おうとして小さな音が耳に届いて、言葉を止めた。
「先におやつにするか?」
「ぼ、僕は結構です!食べたかったら兄さんだけ食べててくださいっ」
 きゅるると鳴ったお腹を押さえて、真っ赤になったルートヴィッヒに噛み付かれてしまった。ヤーコプはやれやれと肩をすくめる。
「俺は仲間外れにするのも、されるのも好きじゃないんだよ」
 もう一度ルートヴィッヒの頭を撫でてから、ヤーコプは立ち上がった。


 きゅう、とお腹が鳴った。きっともうおやつの時間を過ぎてしまったんだろう。なんでもかんでも大雑把なお前の中で、それだけは正確だな、とルーイに褒められ、いや意地悪を言われた腹時計だ。きっと間違いない。お腹が空いていて、今手には野イチゴがあるけれど、これは食べちゃダメ。みんなで一緒に食べるのだ。アルに食べさせてあげるものだ。
 じっと辺りに目を凝らして、帰り道を探す。初めて来る森じゃあない。兄さんたちと一緒に何度も来たことがある。
(でも、一人で来たことはなかったわ……)
 頭上にも木々が生い茂っているが、ちゃんと青空が覗き光が射すので、森の中はそう暗くはない。風が吹くと包みこむように木の葉ずれの音が降り注ぐ。まるでささやき声のようだ。この声が妖精のおしゃべりで、帰り道を教えてくれればいいのに、と思う。兄さんたちの聞かせてくれたおとぎ話に、そんなお話があったのに。
(だけど、妖精に木の中に閉じこめられて、何百年もたってしまったっていうお話もあったわ)
 もし、そうなってしまったらどうしよう。涙が浮かんだときに、ガサガサと茂みがなった。
「な、なにっ……?きゃああ!!」
 急に飛び出してきた黒い影から逃げ出そうとして尻もちを着いてしまった。逃げられない。ぎゅうと目をつむった真っ暗な中、なにか、とても身近な重みと温もりがぽすっと足に着地した。
 そして、ニャア、という鳴き声。
「…ア、アル?」
 恐る恐る目を開けると、黒い子猫がスカートの上に器用に座って自分を見上げる。抱き上げると、ちょっと可哀想になるぐらい軽くて、でも一生懸命に頬をすり寄せてきた。甘えるような、なぐさめるようなこの仕種は間違いなくアルのものだ。ひとりぼっちの迷子じゃなくなった、とほっとした瞬間。
「ヘンリエッタ!!」
 ヴィルヘルム兄さん、と応える間もなく、声がしたと思ったら抱きしめられた。走ったのか息が弾んでいて、慌てているのかその力は強い。間に挟まれたアルがつぶれたような鳴き声を上げて、それに気づいた兄さんがはっと身体を離した。
「あ、ああ…ごめんね、アル」
 ヘンリエッタの腕の中で、機嫌悪そうに睨む子猫に謝って、ヴィルヘルムは改めて大切な妹を確認する。
「ヘンリエッタ、大丈夫?ケガはないかい?」
「え、ええ、兄さん。大丈夫よ、さっきのはアルに驚いちゃっただけだから…」
 そう答えながら、そろそろと右手を後ろに隠すのを、彼は見逃さなかった。満面の笑顔で、まるで誤魔化すように笑う少女の頭の少し上に視線をやって、ヴィルヘルムは言った。
「ヤーコプ兄さん!見つけましたよ!」
「っ!!」
 弾かれたように後ろを振り返ったヘンリエッタの、背から前へ戻された手を、素早く捕えて眼鏡の奥で目を細めた。
「じゃあ、この手はどうしたんだい?ヘンリエッタ」
「に、兄さんのうそつき……」
「うん、そうだね。ヤーコプ兄さんは家でお留守番だよ。僕は確かにお前に嘘をついた。ごめんね。
 でもこうでもしなければお前も嘘をついたまま、大人しく手を見せてくれなかっただろう。
 それで、お前はどうしたの?」
 どうして嘘をついたの、このケガはどうしたの、という意図をこめて、もう一度ヴィルヘルムは訊いた。ヘンリエッタは右手を取り返そうとするが、傷が痛まないようにとガッチリと手首を掴む手からは、逃れられずにいる。しばらく唇を引き結んで、ぐいぐいと手を引いていたが、諦めたように口を開いた。
「野イチゴを摘んでいたら、枝で引っかいちゃったの」
「……ヘンリエッタ」
「ほんとよ!うそなんかじゃないわ!」
 咎めるように名前を呼ばれて、ヘンリエッタは大声を上げた。大きな目に涙をいっぱいためて、片腕でアルを抱きしめながら、訴える。嘘をつく。
 掴んだ手に視線を落とすと、まだ小さな手の甲には赤い筋が三本走っている。綺麗に平行する線は枝葉によるものでないのは一目瞭然だった。
「でも、これはア」
「違うもんっ!アルはなにも悪くないもんっ!!」
 とうとう泣き出してしまった妹は、ヴィルヘルムの力が緩んだ隙にさっと手を引いて、アルを両腕でぎゅっと抱えこんだ。あまり力が強くないとはいえ、子猫の身で力いっぱい抱きしめられたアルは苦しいだろうに、それでも鳴き声を上げずにただ首を伸ばして頬を寄せようとする。絶対にアルを離さない、といわんばかりに半ば意固地になってしまった妹に、彼は息を一つ吐いて立ち上がり、一人その場を去る。
「……アルは、悪くないもん」
 残された少女は、ほんの少し子猫を抱く腕を緩めて、もう一度呟いた。子猫はそっと抜け出すと、少女の肩に乗り、その頬を伝う涙を舐めた。
 優しい家族に、わずかに気持ちが落ち着いたヘンリエッタは、手の甲で涙を拭う。傷にその塩っ辛い水は沁みた。傷も痛かったし、なにより、迷子になった自分を探しに来てくれた、もう一人の優しい家族を、きっと傷つけてしまったことが辛かった。
「……ヴィルヘルム、兄さん…ごめん、なさい」
 一人と一匹にしか届かないような、小さな声で囁いた。
「うん、お前はやっぱり素直ないい娘だね」
「え?」
 一瞬空耳かとも思えるような、嬉しそうな声がしたかと思うと、手に葉っぱを持ったヴィルヘルムがニコニコと茂みの奥から現れる。びっくりして目をぱちぱちさせるヘンリエッタの前に座りこむと、ためらいなくその手を取った。
 手に持った肉厚な葉を折って、表皮を剥ぐ。よく見ればそれは、ヘンリエッタが探しに来たはずの、傷に良く効く、お薬になる葉っぱだった。ちょっと沁みるけれど我慢してね、と声をかけてから、そっとその葉を傷口に当てる。
「お前がお転婆なのはよーく分かってる。ケガをしたからって怒ったりはしないよ。
 だけど、お前がケガしたことを黙っていて、傷跡が残ったりしたら……ううん、お前が痛いのを一人でじっと我慢していたら、僕たち家族は辛い」
 大判のハンカチをポケットから取り出して、一旦広げて、三角になるように二つに折る。
「そんなことになったらルーイは怒るし、僕も心配で胸が痛くなる。……それに、ヤーコプ兄さんだって」
「…っ」
 ヤーコプ兄さん、と言ったときに触れている手が強張ったのが伝わってきた。その反応に、ヴィルヘルムは確信した。
 何故、ヘンリエッタがこのケガを―アルが引っかいた傷―を隠そうとしたのかを。ヤーコプ兄さんが怖いわけじゃない。
 “お前に傷をつけるようなら、家にはおけないからね”と、そう言った兄の言葉に、その約束に怯えているのだ。
 みんな、大切な家族だから。
「とっても悲しむよ。もしかしたら一週間ぐらい拗ねて口をきいてくれなくなるかも」
 口と手を動かしながら、ハンカチを包帯代わりに手に巻いて結んだ。
「それにアルだってお前のことが気になって、益々ご飯が喉を通らなくなるかもしれないよ」
 きょとんとした顔で、自分を見つめる妹を愛しく思いながら、手当の終わった手をそっと膝の上に下ろしてやる。
「だから、今度からはちゃんと僕に言うんだよ?そうしたら、ヤーコプ兄さんには内緒で僕が治してあげるから」
「…ほんとう?」
「うん、本当だ。約束だよ」
「約束ね!」
 まだ涙の跡の残る頬で、きらきらと笑ってハンカチを巻いた右手を差し出す。不自由ながらも小指だけを立てようとしている。きっと指切りをしたいのだろう。
 微笑みながらその手を取って、
「約束だ」
 そっと小指の先、小さな爪に口付けた。神聖な誓いのように。
「に、兄さん!?」
「なあに、…って、いた、わ、眼鏡が」
 真っ赤になった妹の、そんな様子も愛らしくて首を傾げようとすると、今までヘンリエッタの肩の上で大人しくしていたアルに頭に飛び移られ、しっぽで眼鏡を叩き落とされてしまった。
 慌てて眼鏡をかけ直すと、その程度では気が済まなかったのか、ヘンリエッタの腕の中に戻ったアルが、牙を剥いて唸っている。
「ア、アル、ダメよ。いい子にして、ね」
 しばらく威嚇は止めなかったが、ヘンリエッタが懸命に宥めてようやく大人しくなった。
「さて、じゃあ、帰ろうか。ヤーコプ兄さんもルーイも待ってる」
 黒い子猫は少女の腕の中、ハンカチの巻かれた小さな手は青年が労わるように包みこんで、野イチゴのおみやげを持って、彼らは帰り道を行く。
 大切な、家族の待つ、家へ。



後書き
 タイトル解説「Secret kiss"」=「内緒のキス”」。
 幸せなグリム一家の話を書くのが大好きです。

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